今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

第17話までの内容整理〜主に土さんのこと(ナギ)

私が10月から「私的ファンサイト」として運営していたこのブログを、共同運営化したその翌日、作者の人がそれへのアンサーとして書いてくれたと思しき「オノミチ・アヴェンヂャーヅより愛を込めて」という記事の中で、

Nagiさん (id:Nagi1995)

カワセリリさん(id:riri_kawase)、

バテオさん(id:natsubatesaurus)、

高岡ヨシさん(id:yoshitakaoka)、

に さん(id:machigaeta)、

kaorinさん(id:kao-kao-n)、

山猫さん(id:keystoneforest)、

サラさん(id:sara_pezzini)

という順番で当初の編集メンバーが紹介された上で、

順番はキックボードに乗る回数が多い順だ。

と書いてあった。何を言ってるんだろうかと思ったら、第17話でのこの展開である。





…おいおい、と思ったぜ。私ゃ何回、作者の人を轢殺しかけてきたのだろう。

ちなみに「オノミチ·アベンジャーズ」という言葉を創作したのはサラさんだとのことだけど、「オノミチ」という言葉であの作品名を省略する発想は今までの私の中になかったので、妙に新鮮な感じがした。この略し方にすると当然「尾道」という漢字が浮かんでくるので、頭の中はたちまち大林宣彦の映画のイメージでいっぱいになってしまう。

芦原すなおという人は自分の「青春デンデケデケデケ」が大林監督で映画化されることが決まった時、とてもうれしかった反面、原作の舞台だった自分の故郷の香川県観音寺市が映画では尾道に持って行かれてしまうのではないかと、ものすごい不安を覚えたのだという。結果、ロケ地は観音寺になったから良かったのだけど、それはまあ、ここでは完全に余談。しかし「青春デンデケデケデケ」に関しては、私はやっぱり原作の方が圧倒的に好きだな。

=============================

ところで「ミチコオノ日記」という作品の読み方をめぐって、ヨシさんは「正直、答えなどはどうでもいいと考えている」と書いておられ、それはそれで本当に「正しい」態度だと感じさせられる一方で、私自身は作者の人が本当に「伝えたいと思っていること」を自分は「ちゃんと」受け止められているのだろうかということが、いつもとても気になっている。

私は土さんというキャラクターに対して極めて強い思い入れを持っているつもりでいるのだが、以前にある所で「土さんは登場以来まだ一度も言葉を発していない」と書き、作者の人を非常にガッカリさせてしまったことがある。登場場面を確認し直してみると、「オノさん 林檎あげる」という一言だけではあるものの、確かにハッキリと「言葉を発して」いる。

(第11話より)


私の読み方がいいかげんだったというだけの話ではあるのだけれど、その時の作者の人が本当に「ガッカリ」していたことは、忘れられないぐらいよく覚えている。つまりあの一番最初の場面で土さんが一言だけ言葉を発しているということは、作者の人にとって読者の一人一人に「絶対に覚えておいてほしいこと」であったわけだ。そのメッセージを私は明らかに「受け取り損ねて」いたわけである。

しかしそんな風に考えてみると、この土さんという「不思議な人」のことを我々の一人一人が現時点でどこまで「知って」いるのかということは、人によって非常にまちまちなのではないかと思う。どこまでが作者の人の「明らかにしていること」で、どこからが「伏せられていること」なのかということも、整理してみないと極めて分かりにくい。さらにそもそも「整理することができるのだろうか」という気もする。朝令暮改の作者の人のことだから、下手に「整理してしまう」ことによって思わぬ矛盾が「発見」されてしまい、双方が頭を抱えるようなことにもなりかねないからである。

「意図されたことが伝わらず、意図されていないことが伝わってしまう」。このことはしかしながら、ある程度は作者の人の責任でもあるかもしれないが、より多くの部分は間違いなく「読み手」の側の問題だと思う。土さんという人について、いろいろなことが少しずつ明らかにされて行けばされて行くほど、私の中には「わからないこと」が増えて行くのだが、17話が終わった現在の時点で「何が分かっていて何が分かっていないのか」を整理しておくことは、他の多くの読者の人たちのためにも、無駄なことではないと思う。以下、土さんの全ての登場回へのリンクを貼っておくので、行ったり来たりしながら一緒に確認されたい。
michiko-ono-diary.hatenablog.com
michiko-ono-diary.hatenablog.com
michiko-ono-diary.hatenablog.com
michiko-ono-diary.hatenablog.com

私が一番頭を悩ませているのは、「時系列」の問題である。

作中のミチコさんにとっての時系列としては、土さんが登場した11回は文化祭の直前(その日の朝)、猫力さんの歌の中のイメージシーンで電車に乗っている土さんの姿が出てくる14回は文化祭の最中、そして例の「お墓のシーン」が出てくる15回は「文化祭の後」の話になっている。

そして17話に関しては、天使が出てくるところなども含めて第15回の「お墓のシーン」が、より詳しく描き直された回になっていると解釈することが可能だと思う。

(第11話より)


(第14話より)


(第15話より)


私がモヤモヤしているのは、
11話の冒頭で土さんがミチコに渡したリンゴは、17話で彼女が見つけたリンゴだと解釈してもいいのだろうか?
ということである。だとすれば「お墓のエピソード」は、文化祭の前に起こった出来事だったということになる。

そう考えるのが「自然」だと思われる理由は、いくつかある。

  • 11〜17話の各話をつらぬき、土さんは「同じ服」を着ている。17話の冒頭と最後は制服姿だが、冒頭は「お墓の出来事」のしばらく後になって土さんが「同じような虹」を見たことから「回想」が始まっている描写なのだと解釈できる。最後の制服姿は第15話の「それから、東條も来るぞ」に直接つながっているのだと思う。

(第15話より)


(第17話より)

  • 第11話には、土さんの服に「葉っぱがついていた」という描写がある。(ただしこれは彼女がフツーに「家でくっつけた」葉っぱである可能性もある)。

(第11話より)


しかしそう考えるにはどうもスッキリしない部分が、私の中にはある。

  • お墓のエピソードが文化祭の前だったとしたら、土さんは文化祭の最中、どこに行っていたのだろうか?
  • お墓のエピソードのリンゴと初登場時のリンゴが同じリンゴなのだとしたら、あれだけのことがあった後であるにも関わらず、土さんの顔が全然「解放されてない」のは妙ではないだろうか?それが文化祭の後になってあの笑顔になるのは、唐突だ。(初登場時だからぎこちない表情になってるのは当然かもしれないが)

…なので私は、「お墓のエピソード」は「文化祭の最中」に起こった出来事であると解釈したい気がする。文化祭を通じてミチコさんが「ひとつの幸せ」を手に入れたちょうど同じ時に、土さんは自分の場所で「ひとつの幸せ」を手に入れたのだと、そういう風に思いたい。14話に出てくる電車のシーンは、おそらく猫力さんが歌っているその同じ時に、土さんが親のお墓のある場所に向かっているリアルタイムの描写なのだろう。

だとすれば、土さんがミチコにリンゴをあげるのは「割としょっちゅうある話」なのだということになると思う。むしろ大切なのは「土さんにとってリンゴは何を象徴しているのか」ということだろう。それはおそらく、これからも「言葉としては」明らかにされないことだと思う。

その上で、疑問は他にもある。

分からないのは「土さんの家族」のことである。

最初、私は、あのお墓の下に眠っているのは土さんのお母さんなのだと思っていた。15話には「お母さんの姿」「お母さんの言葉」しか出てこないからだ。

しかし17話を読む限り、あのお墓の中にいるのはどう見ても「お父さん」である。それも「土さんが大好きだったお父さん」である。

考えてみると11話でミチコが土さんを紹介している場面でも、「お母さんが死んだ」などということは一言も書かれていない。フツーに「有名な人形作家」だと書かれている。

だとすればお母さんは「生きて」いるわけだ。そして「緑の家」の中で、現在でも土さんと一緒に暮らしているわけだ。

そして絶対土さんと「うまく行っていない」のである。(「緑の家」にしょっちゅう救急車がやってくるということは、お母さんが心や体を深く病んでいることを示している)。

ただし土さんからお母さんに対する感情は、怒りや憎しみではないと思う。むしろ自分が「愛されていないと感じていること」「必要とされていないと感じていること」「力になれていないと感じていること」に起因する、苦しみなのだと思う。平たく言えば土さんはお母さんのことを、愛している。

だとすればお墓のシーンで土さんが見せたあの「激しい感情」は、お父さんに対するものだったということになる。自分をそんな環境に取り残して行ってしまったお父さんに対する、怒りである。大好きだったお父さんに対してだけは、そうした生々しい感情を土さんはぶつけることができた。そういうことなのだと思う。

けれどもその感情は、乗り越えることができた。それが今である。

しかし現実の中で同じ屋根の下に暮らしているお母さんとの関係が「変わる」ことがありうるとしたら、それはむしろこれから始まる、土さんにとっては「もっと大切な物語」なのである。

…という風に私はここまで解釈しているのだけれど、果たしてどこまで合ってるんでしょうかね。このブログの一番最初の文章で私は「生きてる人間が一人も出てこない絵日記」を読んでる気がしたと書いた。その感じは、土さんの周辺をめぐってだけは、いまだに変わっていない。ひょっとするとお母さんも土さんも「やっぱり死んでいる」なんてことがありうるのではないかという気持ちを、心の片隅からは拭うことができずにいる。

それと関連して今一番悩んでいるのは、第17話のどこまでが「現実に起こった出来事」で、どこからが「夢」なのだろうかということである。

だって、キックボードであそこをああされたら、絶対死ぬよ。

お墓のエピソードまで含めて全てのことが「土さんの心の中での象徴的な体験」だったと解釈することは、可能である。と言うよりいくらかの部分は、確実にそうなのだ。

しかし土さんが文化祭に顔を出さなかったことなどを含めていくらかまでは「現実の出来事」であるということも、また疑いえないことなのだ。とはいえそれがハッキリするのは、もう少し物語が進んでからのことなのかもしれないとも思う。

しかし、永遠にハッキリさせられることはないのではないかという気も、一方ではしている。

=============================

実は以前、作者の人との個人的なやりとりの中で、以下のようなことを言われたことがあった。

わたしはミチコを鉛筆にして
形 アウトライン 一つの線

土を 色にして
カラー 無限 無軌道 増殖
形つくれないもの
ランダム
偶然

その対立と
融合を

やろうとしてるの

…またこうも言われた。

今のわたしは 土 そのものだ
無軌道 いきあたり
ばったりなんだ

だからわたしには
正確な地図 規律 ルール
模範 枠が 必要だ

…そしてその「地図」としての役割を、「私的ファンサイト」として出発したこのブログや、ブログを通して出会った一人一人の読者の皆さんに求めて行きたいという言葉で、メールの文章は結ばれていた。

私信の中で書かれたこのやりとりを公開してもいいのだろうかという逡巡は私の中にもあったのだが、作者の人に確認をとった上で今回公開に踏み切ったのは、これがこのブログの共同編集者の皆さんのみならず「ミチコオノ日記」の全ての読者に向けられた言葉だと、私は感じているからである。

その意味で私たち読者の一人一人は、濃いか薄いかの違いはあれ、あの作品に対してそれぞれ「責任」を負っている。そして作品世界がどんどん充実してゆく一方で、最近身辺が忙しくなってブログにさける時間がどんどん少なくなってきた私の個人的な力では、とてもその「責任」を果たしきれないのを感じている。

私がこのブログの「共同運営化」に踏み切った一番の理由は、そこにありました。今後私がここに顔を出せる機会はどんどん減ってゆくと思うのですが、皆さんの力で、「ミチコオノ日記」をよりよい作品にしてゆくことができればと考えている次第です。

そんなわけで「華氏65度の冬」では取りあげたくても取りあげることのできないインストの曲を1曲紹介したりなんかして、今回は締めくくらせてもらうことにしようと思います。


Nightnoise "At the races"

ではまたいずれ。

このページの一番うえにもどります