今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

ナギです。

丸一日スマホを開かないと、とんでもないことになってますね。コメントなんか、とても全部さかのぼれないくらいです。

そんな中で昨日はヨシさんの「こんな場所がほしかった」という記事に書かれたコメント欄の中で、主に「ミチコオノ日記」の作者の人からこのブログの「あり方」をめぐるいくつかの提起がなされていたので、一応「私的ファンサイト」から「集会所」を立ちあげた人間として、自分の考えを書いておかねばならないと思って、えー、20世紀的な表現だと「ペンを取りました」とか言うところなんだけど、今は何て言えばいいんだろ。

まず、コメント欄での作者の人とヨシさんとのやりとりを、整理してここに再掲させて頂きます。(赤字が作者の人で、青字がヨシさんです)

ごめん ここを借りてお願いがあるの
ここをわたしだけがモチーフになる場所にするのやめよう
わたしはキッカケにすぎないの
ナギが迷子にならないように作ったんだけど
ここは もう 皆んなの公民館なんだよ
わたしの 画像ばかりが 溢れるのは
もうやめよ
みんなが 好きに使おうよ
わたしはマンモス嬉しいが
ここは もう わたしの サイトより
PV数が ある それだけ 発言力がある
わたしが 貴方達を使ったメガホンで叫んでいると
思われたくない
わたしはニューヨークに1カ月くらいいて
ブルックリンにある デカイ共同アトリエを
見てきて 実際自分も7人で共同アトリエを
作った そこではみんな思い思いに作品を
制作していて 途中だろうが 公開していて
完成した人は 優先的に 作品を入り口ロビーに
展示していた 中にいる 暇な人が お客様の
相手をして コーヒーをいれて 音楽をかけ
関係ない雑談を延々としていた
そして たまに みんなの 意見が噛み合えば
共通のテーマを出し 「お題」として
みんなでグループ展示をしていました
この はてなの 縦のスクロールなら10人分くらいの
作品楽勝に 貼れると 1番貼りまくるミチコは
おもいます
わたしは だから 自分の 3ブログの作品が一個でもできたら
自分の場所と ここに貼るつもりでいます
もちろん リンクを貼ってもらうだけでいいというかたや
ここを切り離してやりたいという方に
わたしは文句は一切 いいません
ここは ミチコオノファンサイトから今井町の集会所に
もう以降をはじめています
「あーそういえば 前は ミチコオノ日記だけやって
なかったっけか 自作自演かと思ってた でもあの集会所の
今井って なに? 意味分からない でもあそ変な人達多いよね
なんか最近また 増えたし もうメンバーとか
あんまり 関係なくないかあれ 映画特集とかやったり
料理特集とかやったり 読書感想会やったりしてるし
自由でいいよね あれ 最初に作ったの誰なんだろう」

わたしはこんな感想がほしいです
nagiが作った場所での わたしの
わがままな 発言をゆるして頂きたいが
そのように 姿を変えていかないと 集会所は
もちませんし 活気がなくなります
わたしも アトリエで 上映会をしたり
しましたが やはり
作家が作家でかたまるだけでは
傷の舐め合いに近い握手会になります
だから 外にひらきましょう
ジェーンもいるし 猫好きに声かけたり
バリピルさんみたいに猫特集やってもいいと
おもいます

昼間からまくし立て申し訳ありませんが
皆さまのご意見を聞かせていただきたいです
お願いします

ミチコさん
『作家が作家でかたまるだけでは傷の舐め合いに近い握手会になります』
仰ってることは分かります。
自分の中でこの場所は、ミチコオノという人を通して感じた想いの懇談所という感覚でした。
各話や絵の感想を書いたり、それに付随する想いを出し合う場所だと。
氏が言わんとしている事はとても理解出来るのですが、それと同時に、このサイト立ち上げたナギさんの気持ちを考えます。
他の方の考えは分かりませんが、自分は自分の頭の中にあるものを表現したくて、はてなをやっています。
自分はミチコオノ氏と出会い、新しい引き出しを発見しました。
知らない内にルーティーン化されていたインスピレーションに穴を開けられたのです。
氏の絵から会話劇を生み出すコラボもその一つです。
氏を介して出会った人達が集まる公民館。
触れ合う袖が多ければ多いほど、そこから得られるものは広がっていくのだと自分は思います。
いや、思います、と書きましたが、以前はそのような考えは強くありませんでした。
自分の中に深く潜り、そこにあるものをトコトン突き詰めた先に出したい想いがあると信じていたのです。
でも、今は違います。
口にしたことのない実の美味しさを知った後は、尚更です。
渦に入って流れ着いた公民館。
氏が入り口であるにせよ、お菓子を持ち寄る方々と全く関係ない話題を繰り広げるのも、きっと楽しいのだと思います。
ただ、今井町公民館としてやっていくのなら、具体的な運営方針を詰めたほうがよいと感じますが。
皆さんは、どう思われますか?

ヨシさん
まさにそれです
nagiが

皆さんをどのような意図で共同編集者にしたか
あと どのような 意思で
1人歩き する 場所したいと いったのか
わたしに 対して だけの 卒業アルバムで やるなら
わたしは 卒業したら ここは
自然消滅しますか?
では わたしが もし 戻ってきたときに
わたしは また 迷子状態からスタートでしょうか
? すこし もったいない気がします
もちろん 大きな 流れは nagiに

に 任せます 彼が管理してますから
ただ すこし みんなで 考えてもらいたい
わたしはもちろん 御大 と 名乗った以上
一番でしゃばるし
nagiを 酷使して 独占しつづけますので
わたしに 絡む感じで 普通にやってもらえばと

そのうちね 必ず
関わりたい 協力したいってひとが
でてくるの わたしの経験からすると
そのときにその人達を締め出すような
閉鎖的な城の女王には
ミチコは死んでもならないよ ってだけ

ミチコさん、閉鎖的な城の女王には、死んでもならないで下さい。
行くんです、先へ。
それは何もあなただけの話ではない。
閉鎖的な住人になるくらいでしたら、自分は公民館の下駄箱にローションを撒きます。
滑って持っていたおせんべいが全部割れてしまうほどの、大量ローションです。
ここは、骨休め場です。
交流場です。
つまり、公民館なのです。
ここに何人たりともを閉じ込めてはいけないと自分は思います。

…というわけで、えーと、何から答えればいいのかな。

「みんなが 好きに使おうよ」という作者の人の意見に、とりあえず私も賛成です。

でも、これじゃ、ほとんど何も言ったことにならないよな。ひとつひとつ、具体的に答えていった方がいいみたいですね。

nagiが
皆さんをどのような意図で共同編集者にしたか
あと どのような 意思で
1人歩き する 場所にしたいと いったのか

私が「ミチコオノ日記」の「私的ファンサイト」を共同運営化しようと考えた一番直接的な理由は、何度か書いてきましたが、私自身の身辺が忙しくなってきていて、ブログに今まで同様のエネルギーを割けなくなりつつあるからです。正直言いまして数カ月単位で「スマホ断ち」しないと取り組めないような仕事に現在、直面しております。

今までの私には、ハッキリ言って作者の人が「ミチコオノ日記」に注ぎ込んでいるのに負けないぐらいのエネルギーをもって、自分もその作品に向き合っているという自負がありました。しかしこれからはそうは行きません。率直に言って「自分のやってきたことを他の人たちに引き継いでほしい」というのが、共同運営化を思い立った一番の理由でした。

だから、はてなブログに毎月1000円払ってこの「場」を維持するという意味での「管理責任」だけは果たすつもりでいますが、内容をめぐる運営責任は、そもそも今後の私には取れそうもないのです。「この集会所が勝手に動き出してくれたらいい」というのはそういう私の現状を踏まえた、基本的には無責任な願望なのだということを明らかにしておかねばならないと思います。

共同編集メンバーに関しては、「登録したメンバーしか書けない仕組みになっているからとりあえず最初は知っている人に声をかけた」というだけで、基本的には誰でも参加できる開かれた場であるべきだと私も考えています。

ちなみに私が最初に共同編集メンバーに登録した人は、「ミチコオノ日記」と「華氏65度の冬」の共通の読者で、かつ私と作者の人の両方と言葉を交わしたことのある人の「全員」でした。「なぜ自分には声がかからないんだ」と思う人を作り出してしまってはいけないという気持ちから、あえて全員を登録させてもらったのでしたが、そのためにかえって困惑させてしまった方もいました。このことについては、やり方が乱暴だったと反省しきりです。けれどもそもそも「誰でも書ける場」であるべきだというのが私の考えで、そのためにメンバー登録も軽い気持ちでやれ(てしまっ)たのだというのが、実際のところだったのです。

そして何より、私が声をかけさせて頂いた皆さんは、共同編集メンバーになってくれた人であれくれなかった人であれ、間違いなく私と同じかそれ以上に「ミチコオノ日記」という作品を愛していることがハッキリと伝わってくる人たちでした。「基準」はそれだけだったと思います。

しかしその「基準」がなければ、そもそも私が今いる人たちに「一緒にブログを作ろう」と呼びかける理由も、存在しなかったわけです。少なくとも現段階では、この共同ブログは「ミチコオノ日記」という作品の存在を「軸」にして初めて成立しているものであり、そこを外せば「何でつながっているのか」という理由が失われて、バラバラになってしまう気がします。

「ミチコオノ日記」との出会いを通していろいろな新たな出会いが生まれ、そこから今までになかったものが生まれてくる「マジック」については、ヨシさんやカオリンさんが繰り返し言葉にして下さっている通りです。しかしそれはあくまで「ミチコオノ日記」という作品を媒介とした出会いであるからこそ生まれるマジックであり、作品に備わっている力だと私は思っています。もちろん、一人一人が力を持っているのです。しかし「出会いを作り出す力」は、誰にでも備わっているわけではありません。付け加えるならこの「力」は作者の人の人格に備わっている力であるようにも、私はあまり思えません。あくまでそれは「作品の力」なのだと思います。

この集会所の「場のエネルギー」がひとつの形を持ったものに結実することがあるとすれば、それは結局「ミチコオノ日記」それ自体の形をとることになるのではないでしょうか(…ややこしいことを言ってるな)。私が「3月には卒業アルバムができる」と書いたのは、別に作者の人にプレゼントしたいから(だけ)ではないのです。ここにいる私達一人一人の顔がそこに残ることを、私(たち)自身が誇りにし楽しみにすることができるからなのです。そういう楽しみ方は少なくとも私の場合、「華氏65度の冬」では味わえないことなのです。

そういう人たちが、私がたとえ顔を出せなくなったとしてもどんどん新しくこの場に集まるようになれば、このブログは「うまく行く」と思います。「姿を変えていかないと 集会所はもちませんし 活気がなくなります」と作者の人は書いていましたが、このブログに関しては、作者の人が活気をなくすことがない限り、スキマ風が吹くようなことにはならないはずです。みんな「ミチコオノ日記」を通じて集まっているわけなのですから。

それと、「わたしが 貴方達を使ったメガホンで叫んでいると思われたくない」などと書いておられましたが、冗談じゃありませんや。

いつ私が
そんな文章を書きましたか?

俺の文章みたいな言葉でてめえに叫べるもんなら叫んで見やがれってんだべらぼうめ。私の言葉が私の言葉であることは私が知っているから誰にもそんな心配をしてもらう必要はありません。あなたがそんな心配をするのは、私や他の「ミチコオノ日記」の愛読者の人たちのことをなめているからです。

なめるな。

それとあとは

関わりたい 協力したいってひとが
でてくるの わたしの経験からすると
そのときにその人達を締め出すような
閉鎖的な城の女王には
ミチコは死んでもならないよ

という点について。私はそういう人たちが出てきてくれたら願ったり叶ったりだと思っています。ブログへのメンバー登録って、名義人の私にしかできないことなのかな。他のメンバーの皆さんにも自由にやれることではないかと思うので、試してみてできるようであれば、ぜひ皆さん一人一人の判断でいろいろな人を新しいメンバーに加えてあげて下さい。

ただし私自身は、何回か書いてきましたが、ネット上にゴマンと溢れている右翼的な考えを持った人間や、差別的な考えを持った人間とは、絶対に言葉を交わしたくないと思っていますし、現れたら追い出すしかないと思っています。少なくとも自分のブログでは今までずっと、そうしてきました。そのことは自分のブログのみならず、私たちが生きるこの世界そのものを「誰に対しても開かれた世界」にしてゆくために、一番外してはならない点だと考えているからです。

しばらく留守にして覗いてみた時に、もしも万一このブログがそういう人間たちの幅を利かせる場になってしまっていたら、その時には自分から離れる以外にないと考えています。場所を作った上で留守にする方が悪いわけですから、その時になってあれこれ言える権限が自分にあるとは思えません。

自分のこだわりはそれだけなのですが、このこだわりはシビアなものです。

関連して一点だけ述べるなら、昨日作者の人がリリさんに対して「マッド·アイドル」という「二つ名」をつけていましたが、私は「mad」というのは差別語だと思いますし、その言葉を使って誰かのことを呼び合うような関係の中には、入りたくありません。

「言葉だけ」を問題にしているのでは、私はないのです。今の社会は自分のことを「mad」だと思っていない人間たちが「mad」だと見なした人間たちを差別し排除した上に成立している社会であり、それを許せないと私が感じていることが、基本にあります。

自分のことを「mad」だと思っていない人間たちから「mad」というレッテルを貼りつけられたら、鉄格子のついた閉鎖病棟に閉じ込められたり、本人が絶対拒否しているのに電気ショックをかけられたり、脳にロボトミー手術を施されて人格を破壊されることすら起こり得るのが今の社会です。「mad」を差別した上に成立しているこの社会では、「madだから」という「理由」だけでその全てが正当化されます。それは絶対に正しいことではないと私は感じています。

それなのに、人に「mad」というレッテルを貼って排除を正当化している人間たちと同じように、自分も「mad」という言葉を使い始めたなら、「差別のシステム」を認めることになると私は思うのです。「mad」という概念がこの社会に流通していることを受け入れたなら、閉鎖病棟にも電気ショックにもロボトミー手術にも「逆らえなくなる」気が私はします。だからその言葉自体を私は拒否したいのです。

「mad」のレッテルを貼られた人が「madで何が悪い」と声をあげる形で、言わば「誇りを持った自称」として「mad」が使われるケースは、ありうると思います。そういう使われ方の「mad」を否定することは、誰にもできないと思います。

しかしそうであるからなおのこと、閉鎖病棟に入れられた経験も電気ショックをやられた経験もなく、その恐怖と背中合わせのところで暮らしているわけでもない人間たちが、面白半分で軽々しく使っていい言葉ではないと私は考えます。

私が考える「開かれた場」というのは、そういうことを「指摘しあえる場」のことです。もちろんそういうことを「指摘しあう関係」には、緊張感が伴います。

しかしそういうのを「指摘できない関係」を作ってしまったら、その時こそこの場所には何の意味もなくなってしまうだろうなと、私は思うのです。

…何しろ、私は今後しばらく、マジで顔を出せなくなります。「nagiを酷使して独占しつづける」と作者の人には宣言されてしまいましたが、その任には耐えられそうにないので、「ごめんなさい」と言う他ありません。

とはいえ、現在ここに集まっている皆さんのことを、基本的に私は信用しています。そして「我的朋友是你的朋友(私の友達はあなたの友達)」という中国のことわざを、気に入っています。

今の流れでなるようになれば、悪いようにはならないのではないかと、とりあえず今のところは、楽観視しております。

自分の考えは、以上です。

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