今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

感想:想像を呼び込む絵、フィルターを外す絵

昨日のヨシさんの記事には、いろいろ気づかされたり考えさせられたりするところが多かったので、きちんと感想を書いておきたい気持ちになりました。おそらくは「ミチコオノ日記」の作者の人も黙ってどこかで読んでいるはずだと思うので、「あの絵」の感想も含めて書きたいと思います。青字はヨシさんの文章からの引用です。

何かを書き表す時、皆さんの内側には何がありますか?

詩でも小説でも、自分は頭の中の映像ありきで書いてきました。

自分の過去を書く時も、想像上の街で起こった事柄を書く時も、浮かんだイメージを動かして、そこで目にしたものを言葉にしてきました。

私も「映像ありき派」なのです。

私が歌詞対訳のブログをやっているのは、自己表現のためと言うよりむしろ、自己表現にしか興味がなくて他の人の言葉に全然耳を傾けず、結果いろいろな人たちを傷つけてしまってきた自分の過去への反省の上に立ってのことであり、「人の話をちゃんと聞くための練習」であると、自分では位置づけています。

その上で、「いい翻訳」ができるかどうかは、その歌の「風景」がハッキリ頭に浮かぶかどうかにかかっていると感じるところが多いです。

基本的に翻訳は、分からない言葉の意味を辞書で調べつつ、一語一語を外国語から日本語に移してゆく作業なのですが、いい歌の中には大体「映像を喚起してくれるキーワード」が含まれています。そしてそのキーワードを読み解くことを通していったん頭の中に「映像」がイメージとして形づくられると、そこから先の翻訳は、その映像を日本語を使って写生していくような作業に変わります。細かい語句の対応にとらわれず、割と大胆に翻訳することが可能になるのです。

人の書いた文章や翻訳を見て上手いと思うかどうかも、「風景が見えてくるかどうか」にかかっている気がします。特に歌詞の翻訳である場合、どれだけ原詞に忠実で「正確」なものであろうとも、風景が見えてこない翻訳だと、「見ない方が良かった」という気持ちになるものばかりです。一番最悪なのは「訳した人間の顔しか見えてこない翻訳」だと思っているのですが、人のことを言えた義理ではないかもしれないので、あまりエラそうなことは言えません。

しかしながら困ったことに、人間の眼には〜顔についてる眼にも心の中の眼にも〜意識するとしないとに関わらず、「自分の見たいと思っているものしか見えない」という恐るべき性質が備わっており、これに引きずられると実にしばしば「間違った風景」が見えてしまうのです。「華氏65度の冬」という私のブログ名は、中学生だった頃の私の心に焼きついてしまったそういう「幻の風景」が元になっていますので、興味のある方はぜひ第1回目の記事を読んでみてください。

nagi1995.hatenablog.com

「自然の風景」を見る眼に主観が入ってしまうのはどこまで行っても避けられないことなのかもしれませんが、他人の書いたものや描いたものから喚起されるイメージである場合、相手の言いたいことを「ちゃんと」聞き取ろうとすれば、あるいは読み取ろうとすれば、「ひとりよがりな勘違い」は大抵の場合、是正することができます。翻訳を始めてからの私は、自分を表現するということよりもむしろ、そうした勘違いに気づかされて自分自身が変わってゆくことを実感させられるようなプロセスの方が、楽しくなってきているのです。

そんな私にとって「ミチコオノ日記」が衝撃だったのは、やはりあの作品が「それまで一度も見たことのなかった風景」を私に見せてくれたからだったと思います。

事あるごとに触れていますが、自分はミチコオノ氏の世界と出会ってから、今まで飛び込んでこなかった想像を得られるようになりました。

言うなれば、新しいタイプの映像です。

とヨシさんは書いておられますが、全く同じことを自分も感じました。あの作品に出会ってから、今まで全く見えなかったものが自分にも見えるようになった気がするし、自分の翻訳のスタイルも大きく変わったのを実感しています。

決して大げさでなく、それは「世界の見え方が変わった」からだと思うのです。あの絵を描いた人と私は今までずっと「同じ世界」に生きてきたはずなのに、私の眼には世界があんな風に見えたことは一度もなかった。それがあの絵を通じて自分にも「見える」ようになると、文字通り自分にとっても、世界がそれまでとは違った感じで見えてくるようになった気がするのです。

絵というものにあんな風に人間を変える力があるなんて、私は全然知りませんでした。何となく、言葉の方が「エラい」かのように、ずっと錯覚していました。実に何と言うか、穴があったら入りたいような気持ちです。

その上で昨日のヨシさんの文章を読んで考えさせられたのは、その「同じ絵」を見ていても、それに対する感じ方は人によってこんなに違うものなのか、ということでした。



ここでようやくこの絵が出てくるのですが、私が最初にこの絵を見た時に感じたのはひたすら「陽気な印象」でした。女の子は傘、男の子はバットと、手にしているものは全然違うけどそれぞれ「自分を象徴するもの」を得意気に振りかざして、生まれ育った田舎の道を誇らしくパレードしている。そんな絵だという印象でした。

だからこの絵を題材にしたヨシさんの短編小説があにはからんやああした禍々しい情念の渦巻く作品だったことに私はショックを受け、思わず「もっと楽しい話にしてほしかったです」とコメントしてしまったのです。

yoshitakaoka.hatenablog.com
しかしながらヨシさんの作品を読み返し、昨日の公民館への寄稿にも目を通して見る中で、私にも「それまで見えていなかったもの」が、この絵の中に見えてきました。

とりわけ「に」さんの「右下の葉の迫力」というコメントで初めて気づかされたのですが、三列あるサツマイモの畝のうち(これがサツマイモ畑であることは田舎育ちの私にはハッキリ分かるのだが、街の子巷の子っぽい作者の人が「分かった上で」描いたのかどうかは、定かではない)、一番右の畝だけが、ドキッとするほど禍々しい感じで描かれています。そしてよく見るとこの絵は、右半分と左半分で全く印象が違うのです。

左側、女の子の向こう側の山の上の空は、うっすらとですが、晴れています。これに対して男の子の上の空は、完全にどんよりしています。右端のサツマイモの畝だけが妙に暗く描かれているのは、そうした気象条件に起因する光の当たり方にすぎないと言えば、言えるのかもしれません。しかしそうした気象条件それ自体か、いったん気になり出すとすごく禍々しいものに感じられます。

さらによく見ると、女の子の表情は本当に幸せそのもので、あたかも未来のことしか考えていないようであるにも関わらず、男の子の方は必ずしもそうでないようにも、見えます。何か事務的と言うか心ここに在らずと言うか、とりあえず付き合いでバットを振りかざしているだけというような顔に、言われてみれば、見えてきます。まるでギャグみたいに同じポーズをとっているから、パッと見、女の子と男の子は心も一つにしているように見えるのですが、実は内側ではそれぞれ全然別のことを考えているのかもしれません。

そして女の子の右腕を見ると、最初は気づかなかったのですが、「赤い線」が入っています。ヨシさんの頭に浮かんだという「幅30センチの傷(←もっともこの場合「幅」ではなく「長さ」と言うべきでは?)」は、そこから連想されたものなのでしょうか。それとも「7日間」や「切り裂かれたお守り」と同じように、脈絡なく浮かんできたイメージなのでしょうか。いずれにしてもあの小説を読んだ後だと、あの赤が妙に生々しく見えてきます。(一方では、左腕に描かれているのと同じ単なる服の柄なのではないかという風にも思うのですが)

そして何より、私が最初にこの絵を見た時に感じた二人の登場人物の無邪気さや大らかさが、あの小説を読んだ後だと「だまされているがゆえの無邪気さ」なのだという話になるわけで、そう考えるとこれはやっぱり怖いです。

…しかしそんな風に全然ちがった見方が可能であることを頭では理解できても、私の眼には依然としてこの絵は「明るい絵」であるように感じられます。見ているとウキウキしてくる感じさえ覚えます。第一印象で形作られたイメージというのはそれだけ強力なもので、容易なことでは覆らないのかもしれません。

不思議なことです。

ただ一点だけヨシさんの作品で気になっている点を挙げますと、あのストーリーに従うならばこの画面の中の女の子は「身代わりの女の子」ということになるわけなのですよね。

ということはこの子自身の腕には、「傷はない」わけなのですよね。ヨシさんはこの絵の女の子から「傷」を連想したにも関わらず、肝心のその子の腕に傷がない。むしろ傷は「この風景を見ている人間の腕」にあることになる。

…その辺にいまいち納得できていないから、この絵に対する自分のイメージが覆るまでには行かなかったのかもしれないという気がしています。

しかしこの絵は「陽気さの影に禍々しさのある絵」ではあっても、「禍々しさの影に陽気さがある絵」ではないと思う。「影の部分」に全然眼が行かなかったのは自分の見方が浅かったからなのだということに、ヨシさんや「に」さんのおかげで気づかされることになりました。

いずれにしても、こういう話ができて、とても楽しかったです。もっと広がって行けば、さらに楽しいことになるだろうと思います。今回は、ありがとうございました。

ではまたいずれ。

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