今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

月世界探訪記 〜「月」レビュー〜


11ぴきのねこ 4/4 /16:40〜

だれもしらない とおくののはら
ちいさなはなが ひとつさく
ひとりねむれば ひとつさく
だからおやすみ わるいこよいこ
ゆめののはらは はなざかり

しんとしずかな のはらのむこう
ぺかりとひかる おつきさま
くしゃみしそうな おつきさま
みんなおやすみ わるいこよいこ
ゆめののはらに かぜがふく

-映画「11ぴきのねこ」より
「おおざかなのこもりうた」-



ミチコオノ日記」の作者の人が「はてな」の外側で描きつづっている連作絵物語「月」について、先日自分のブログで最初の紹介記事を書かせて頂いた。(作者の人に言わせると「ずっとセントヘレナ島にいるようなつもりで描いてきた」とのことである)。私と作者の人との出会いは、思えばジョン·レノンの曲の翻訳記事から始まっているのだけれど、今回の「新たな出会い」が「イエスタデイ」から始まったことはいろんな意味で感慨深いねという感想を、先方からは頂いている。そんな風に言われると、こっちもそんな気がしてくる。
nagi1995.hatenablog.com
今回は読者集会所向けということで、より「突っ込んだレビュー」を書いてみようという試みなのだが、正直に言って現時点の私には、あまり内容のあることを書けそうな自信がない。

もちろん、感じたことを思いつくままに挙げていっていいのなら、それはいくつもある。



例えば、この物語の主人公的なキャラクターであるAyaさんという人の顔を初めて見たとき、私は反射的に「あ、この人はジェーンさんだ」と感じた。ブログから想像されるジェーンさんのイメージは、Ayaさんみたいなマイペースなキャラクターからは程遠い感じもするし、メガネをかけているかかけていないかで言えば、かけていないだろうというのが私の印象だったし、「合っている部分」と言えばそれこそ「子猫を連れていること」ぐらいなわけなのだけど、なぜか最初に絵を見た時に「ジェーンさんだ」ということが私には「わかった」気がした。そしてその直感については、間違っていないはずだという妙な確信がある。



また第二十夜に登場する大貫サリーさんは完全にリリさんだという印象を受けるし



柳さんの木の下に建設される「集会所」に関して言えば、見る人が見れば誰がどう見たってこの「今井町公民館」そのものだという印象を受ける。はずだと思う。

つまり「ミチコオノ日記」の世界と「月」の世界の間には、「断絶」があるわけではない。「ミチコオノ日記」という作品はいろいろな形で我々読み手の世界観を刺激し、押し広げてくれるような作品だった(今でも押し広げ続けてくれている)わけだが、あの作品を通じて「世界が拡がる」ような体験をしてきたのは作者の人の方でも同じだったわけであり、そうやってこの「はてな」という空間で築かれてきた「新しい世界観」を土台にしてその上に開始されたのが「月」という作品なのだろうな、という感じがする。それを本当に「新しい作品」にするためには、「はてな」という「同じ空間」ではいろいろやりにくいと感じはったのだろうなとか、様々なことを想像しているのだけれど、それはまあ書くほどのことでもない。

付け加えて言うならば、あの作者の人には「自分の知っている世界のことしか描かない」という、奇妙なくらいに律儀なこだわりが存在しているように感じられる。「ミチコオノ日記」も「月」も、舞台は大都市の「郊外」であり、そこに描かれている情景は細部に至るまで極めてリアルである。「万年塀」という言葉を私は「月」を通して初めて知ったのだけど、その向こうにあるのが「産廃屋」であるというのも、作者の人にとって自分の生活に密着した非常にリアルなイメージなのだろうな、という気がする。

そんなリアリティに支えられた世界観の上に、「ミチコオノ日記」とは明らかに違った特徴として、「月」では「神秘」や「非日常」への領域へのアプローチが試みられていると思うわけなのだが

そのあたりが私にとっては、どうにもコメントするのが難しいと感じられてしまう理由なのである。



ちなみに私自身は、神秘な話や不思議な話はキライであるどころか、むしろ昔から人一倍ひきつけられてしまう傾向がある。しかしそのことを自分自身で全然、「いいこと」だと思えない。

「月」を最初に読んだ時に私が感じたのは「天理教の創世神話に似ている」ということで(詳細は上記リンクを参照)、それを作者の人に伝えたところえらく興味を覚えてくれたらしく、ぜひ「月」の宗教的解釈を聞かせてほしい、と頼まれたことが、今回のレビューを書くことになったきっかけになっている。しかし私自身は「泥海古記」と呼ばれるその創世神話のことを、ハッキリ「ウソ」だと思っているのである。自分自身が信じてもいない理屈や物語を土台にして、「解釈」もへったくれもあったものではない。




天理教の「泥海古記」には「月=男性」「日=女性」という「設定」があるのに対し、「月」ではそれが逆になっている。そういうイメージの違いがどこから生まれて来るのだろうかといったようなことは、掘り下げてみれば「面白そうな話」ではある。しかし月や太陽が「本当は」男なのか女なのかといったような問題設定は、おそらくそれ自体が無意味なことであるように思える。

ちなみにヨーロッパの諸言語には、日本語や英語には存在しない「名詞の性」という概念があるけれど、それに照らすならフランス語では「太陽=男性」「月=女性」とされているのに対し、ドイツ語では「太陽=女性」「月=男性」ということになっているらしい。

つまりは「どっちでも成立する話」なのである。

だからこれこれこういう国や言語や文化圏においては月が男性と見なされており、どこそこにおいてはそれが逆になっているといったような事例を集めて「完全なリスト」を作りあげることも、今の時代、やろうとさえ思えばそんなに難しいことではないだろう。しかしそんなことをしてみても、やればやるほど訳がわからなくなるだけの話なのであって、結局は「偏見のコレクション」に終わってしまうだけなのではないかという感じがする。

私自身には作者の人と同様、「太陽=男性」「月=女性」だという「イメージ」が、少なくとも物心がつく前の段階から形成されており、天理教の神話や天皇家の神話に対して「何で太陽がオンナになるのん?」「太陽はオトコと違うのん?」という「違和感」を、子どもの頃から感じ続けていたのを覚えている。このことは、そうしたイメージというものは必ずしも「教育」を通じて後天的に刷り込まれるものではないことを示しているように思える一方で、「男はかくあるべし」「女はかくあるべし」という自分の中の「偏見」は、物心がつく前の段階からそれほど強烈に私を縛りつけていたのだということを示すエピソードであるようにも思える。

ある時期に私が考えていたのは、天理教の神話において「太陽=女性」とされているのは、教祖である中山みきが女性だったからなのではないだろうか、ということだった。平塚らいてうという人は「原始、女性は太陽であった」という言葉を残しているわけだけど、つまり人間というのは、太陽と月が並んでいたならば誰であれ、太陽の方に「自分」を重ねたくなる性質を持っているのではないだろうか。そう考えたなら、中山みきにとって太陽が「女性」に感じられたことも、私にとって太陽が「男性」に感じられることも、同じように「自然なこと」として、説明がつきそうな気がする。とはいえ、もとより男の知り合いと女の知り合いの全員から統計をとって確かめたような話ではない。

さらにそうした発想は、月というものを太陽に比べて「下位」の存在であると決めつけた上で、その役割を他者に対して押しつけるというところから生じてきているのだから、「自然な発想」と言うよりはむしろ「邪悪な願望」と言うべきものなのである。他の言語のことは知らないけれど、日本語で「あなたは私の太陽です」と言えば、これは相手に対する無条件の尊敬を込めた最高の賛辞になる。これに対して「あなたは私の月です」というのは、そもそも言い方として聞いたことがないし、もし言われたら言われた方は間違いなく気を悪くするのではないかと思う。

だから私は、自分と同じく男性である作者の人が「月ちゃん」のことを「女性」として描いてみせたその時点で、「これは倫理的に許されることなのだろうか?」というぐらいの「緊張感」を覚えてしまい、今のところ話の世界に入り込めるところにまで行っていないというのが、実際のところなのである。冒頭近くで「内容のあるレビューを書けそうな自信がない」という「言い訳」を入れさせてもらったのは、それが理由になっている。

とはいえ、そうした人間の「勝手な思い入れ」とは全く無関係に、月や太陽は人間というものが生まれるずっと以前から地球の空に存在し続けているのだし、おそらくは人間というものがいなくなった後も、そうしているに違いないのである。そして海の水を引っ張って潮の干満を作り出すのと全く同じように、月というものは我々の体の中の水分をいろんな方向から引っ張り続けて、気持ちや体調や生理状態に不思議な影響を与え続けている。「華氏65度の冬」の中で取りあげてきた曲を列挙してみるだけでも、「月に関する歌」というのはこんなにある。

そう言えば遠い昔にリリさんが、

なんか、変な言い方になりますが、みち子さんの場合は『物語を書いているのではなくて、物語に書かされている』ような感じがします。

と書いていたことがあったっけ。かてて加えてあの作者の人は、「自分の願望にもとづいて」物語世界を組み立てようとしているわけでは絶対にない。

月にはどうも、人間にそういうことをさせる力がある。

そうである以上は、読む方の人間も空の月日を眺めるのと同じように素直な気持ちで作品に向き合うべきなのではないだろうかというのが、現時点での感想である。そして「月」と向き合うために、今の私はまだまだ四苦八苦している。

…どうにもうまくまとめられなかったけれど、最初のレビューとしてはこんなもんでどんなもんでしょうかね。



いまいちだね。
いまいちだね。
いまいちどね。

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