今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

ジョハリの窓と浄玻璃の鏡 〜「ミチコオノ日記」新19話レビュー〜



中学の時の保健体育の授業で「ジョハリの窓」という言葉を習ったことを、今でも妙によく覚えている。

大してややこしい話でもなければ、感動的な話でもない。「言われてみれば」というぐらいの話なのだけど、要は人間には誰でも「4つの側面」があるということを「窓」になぞらえて言い表した比喩である。

なになにかと申しますに (←上方落語の決まり文句です)

  • ①開かれた窓...自分も知っているし他人も知っている「自分」
  • ②隠された窓...自分だけが知っていて他人には分からない「自分」
  • ③気づかない窓...自分では分からないけれど他人は知っている「自分」
  • ④閉ざされた窓...自分にも他人にも分からない「自分」。

...「ジョハリ」というのはこの例え話を考えついたジョセフ·ルフトとハリ·インガムという2人のアメリカ人心理学者の名前を合成して作られた呼び名らしい。私はまたそういう名前の古代遺跡でもあるのだろうかといったようなイメージを持っていたのだが、この話が中学時代の私にとって新鮮に感じられたのは、それまでの私が「自分」というもののイメージを①と②の領域においてしか捉えていなかったからなのだと思う。「自分にとっては未知の領域」である③と④まで含めて「自分は自分」なのだという当たり前のことに「気づけた」ことは、確かに私の人生にとって、大きな出来事だった。

とはいえこの手の「知識」というのは、知ったからといって別に「応用」が利くような種類のものではない。保健体育の教科書はそこから、他者とのコミュニケーションや自分の側からの発信の努力を通じて①の領域を拡大させてゆくことが「自己実現」につながるのだといったような教えを私たちの中に刷り込もうとしていた感じだったが、話をそういう風に進められると、どんなに「科学的」に見えていた議論も途端にウサンくさくなる。

その教科書を書いた人間は、「自己実現」という言葉を、「意識された領域」が「無意識の領域」を「征服」してゆく過程みたいなものとしてイメージしていたのかもしれない。しかしコミュニケーションやいろんな努力を通じて①の領域が「拡大」されてゆくということはありえたとしても、その分だけ他の領域が「狭められる」ようなことは、ありえないと思う。とりわけ③に関しては、自分という人間は一人しかいないにしても、「自分という人間の見え方」というものは、100人の人間がいればそれこそ100通り存在するのである。それらの全てを「意識された領域」に組み込むことができるなどと夢想することは、世界の広さというものをナメきった傲慢な発想にすぎないと思われる。

自分には見えないけれど他人は知っている「自分」、というものは、本気で知りたいと思えば誰にとっても無限に近いぐらい、存在しているのだと思う。しかしそれらの全てを「知る」ことが「自分」にとって「有益」なことであるとは限らないし、知ったところでどうすることもできないことというのも、やはりある。

たとえば私という人間には、男であるとか目が悪いとか関西人であるとかいった「属性」と同列のものとして、「食べたらおいしい」という「属性」も存在しているかもしれない。しかしもし仮に私が「食べたらおいしい人間」だったとしても、私自身にとってそれは自分では絶対に知ることのできない「自分の属性」だし、また知る必要もない属性なのである。むしろ「自分とは無関係な自分の属性」と言った方がいいのかもしれない。

私が「食べたらおいしい人間」であることを「知っている」人間がいるとしたら、その人は当然「私という人間のことを私以上によく知っている人間」であることになる。この「自分という人間のことを自分以上によく知っている(ように見える)人間」というものはしばしば私たちの目にとても魅力的に映ってしまうものだし、特に若い頃はそういう人間にホイホイついて行ってしまったりとか、聞かれもしないのに自分の内面をさらけ出してしまったりとか、しがちになる。しかしよしんばその相手が本当に「自分という人間のことを自分以上によく知っている人間」だったとしても、そいつが自分という人間に近づいてきた動機が「食べたらおいしいから」という点にあるのだとすれば、私という人間にとってやっぱりそいつは「敵」なのである。

保健体育の教科書はそういう「敵」から私たちが身を守るための方法を何一つ教えてくれなかったし、「自分とは無関係な自分の属性」のために苦しめられたり思い通りに行かない人生を送っている数えきれないぐらいの人たちのことを「それはお前の自己責任なのだ」と冷酷に切り捨てているようにも感じられる。それは結局、今の社会においてそういう教科書を作る立場にある人間たち自身が、「人を食い物にして生きる」ことを正当化して生きているからなのだと思う。そしてそういう人間たちが自分に都合よく作りあげた「教育」の内容にもとづき、あたかもそれが「自己実現」であるかのような「夢」を叩き込まれて「食われるための努力」を強制されている人たちというのが、悲しい話ではあるけれど、今の世の中にはとてもたくさんいるように感じられる。

何の話なのだ。

「ミチコオノ日記」の最新19話をめぐる話だ。



先月「再起動」された「ミチコオノ日記」の各話には、以前の公開時には書かれていなかった「あとがき」と題する作者の人のコメントが、一言ずつ書き込まれている。作者の人がどんな気持ちでその作品を描いたのかということに関する情報は、あればあるほど読者としては嬉しいことなので、もちろん大歓迎なのだけど、そこに書かれているのは「大して重要ではないこと」ばかりであるようにも感じられる。たとえば私が大好きな第13話についてのコメントなんて、これだけである。

ホワイトボードを一番 上手く利用できた
双子をイラストで描いたら 多分
イメージはだいぶ変わっているだろう

...いやまあ、もちろん作者の人にとっては「重要なこと」なのかもしれないけれど、少なくとも読者としての私が「本当に知りたいこと」というのは、そういうことではない。あの双子のエピソードにはどんな意味が込められているのかとか、仁くんという印象的なキャラクターが時折見せる寂しげな笑いの陰にはどういう歴史が横たわっているのかとか、そういう「作者の人にしか説明できないはずのこと」を私はもっともっと聞かせてほしいと思うのだけど、肝心なそのあたりのことは、やっぱり一言も語られることがない。

物語作者としてそれは極めて「正しい態度」なのかもしれないし、読者の方に求められている「正しい態度」というものは、それが物語の中でひとつひとつ開示されてゆくのを辛抱強く待つということなのだろうとも思う。あの「絵」があってこその「ミチコオノ日記」なのだから、それを抜きにして例えば

土さんはお父さんのことを許せないと思っていたけれど、立ち直りました。

みたいな結論だけを「言葉」で説明されたとしても、確かに興醒めでしかない。そして土さんが「どんな風に立ち直ったのか」というその「内容」は、あの第17話という「作品」の中に描きつくされているわけなのであり、それ以上のどんな文字も言葉も、あそこには必要ない。リンゴや人形といったキーワード(的な絵)の「意味」を「理解」することができなくても、あの絵をあの順番に眺めるだけで、我々は土さんが経験したのと同じ「生まれ変わったような気持ち」を「追体験」することができる。「ミチコオノ日記」という作品は、そういう「力」を持っている。作者の人が「肝心なこと」をあえて口にしない理由が、それを自覚しているからなのだとすれば、とても心憎いことだと思う。



そんな作者の人が、新19話の「あとがき」においては、珍しくかなりの文字数を使って「自分語り」をしている。(私が「新19話」という言い方にこだわるのは、「再起動」される前の「ミチコオノ」日記に少しの期間だけ掲載されてその後に消えてしまった「旧19話」の存在を、「なかったこと」にはしたくないからである)。いわく

ミチコオノ日記は
そのまま 東條土の話になり
引っ越したミユキの話になった
だからついにミチコは描かれなかった

そういう意味でミチコオノ日記は
失敗した日記だった
ミチコの日記にしてしまった事で
当然ミチコが話をする訳で
ナレーションがいなくなる
引いた視点でミチコを描けなくなる

スピンオフで ミチコを文字から
離したとき 自分は本当は
この日 オノミチコは~
といった文体の話ならコンパクトに
話を量産ができたんだろうと思った

でも今更だけど
おかげでミチコオノ日記
は自分で言うのもおかしいけどとっても
変なものになったから良かった
キチンとレシピ通りに
一度も作れなかったような気分だ

...僭越ながら言わせてもらうのだけど、「失敗した日記」だなんて、そんな言い方があるだろうか。ブログやSNSというものの出現はいろんな意味で世の中の仕組みをややこしくしたけれど、日記というものは本来的には、他人に読ませることを想定して書かれるものではない。自分にとって必要があると思うから書くものだし、必要があると思えなくなったら書かれなくなる。それだけのことなのだから、日記というものそれ自体には「失敗」も「成功」もありはしない。それを「失敗した日記」だなどと言われてしまうと、物語の中で日記を綴っているミチコさんの人生そのものが「失敗した人生」であると決めつけられてしまっているようで、いくら作者の人でもそれはミチコさんに対してあまりに失礼な言い方なのではないかと思う。言うならせめて「失敗した作品だった」と言ってほしい。

そして作者の人による創作としての「ミチコオノ日記」が「失敗した作品」であるかといえば(過去形にはしないぞ)、私は全然そうだとは思わない。「この日 オノミチコは~」的な文体ならもっと話が量産できたと言われてみれば、確かにそうだろうと思うし、そういう文体で描かれる「ミチコオノ日記」が「時々」あっても、それはそれで悪くないだろうとは思う。しかし例えば第15話

こばちゃんと にゃん太



破壊力あったなー



「噛みたくなっちゃうな〜」



わたしが一番好きなとこは

「なっちゃうな〜 」の 次の

「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ」

に入る 手前のあのタメだ



わたしは 「はいっ!」

って思わず言ってしまう

…というくだりなどは、「ミチコさんの視線を通して書かれているからこそ」我々も感情移入することができるし、一緒に大笑いすることができるのである。これがもし「謎のナレーター」の視線から「ミチコは『にゃにゃにゃにゃにゃ』が面白いと感じました」みたいに客観的に叙述されたとしても、我々はちっとも面白くないし、またもしこれがミユキさんの視線を通して書かれていたなら、「何が面白いわけ?次行こーぜ」みたいな感じで簡単に流されてしまっていたと思う。「ミチコさんという人の感性」を通して物語の「提示」がなされてきたことは、疑いなく「ミチコオノ日記」という作品の魅力を形づくってきた最大の構成要素なのである。(...何でこんな持って回った言い方しかできないのだろう。私)。

そのミチコさんという人自身が、文化祭を前後して繰り広げられたいろんな出会いや別れの経験をきっかけに、「それ以上日記を書き続ける必然性を感じなくなる」ということは、ありうることである。第一話の頃のミチコさんは本当に「ひとりぼっち」に見えたし、本人もそう感じていたのだと思う。だから「日記という表現形態」には、すごく説得力があった。

しかし彼女が大関先輩の後を引き継いで一人で守り続けてきた美術部に、土さんとカズエさんという新しいメンバーが入ってきてくれた以上、これからのミチコさんは普通に考えて「リアルな関係」が忙しくなるのである。そちらに注ぎ込むエネルギーの量が増える分、それまで書き続けてきた日記が尻切れトンボみたいな感じになってゆくことは、何ら不自然なことではないし、極めてよくある話だと思う。それはあくまで「ミチコさん自身の問題」なのだ。

けれども「ミチコさんという人の全体像」は、いまだほとんど我々の前には、明らかにされていない。「ジョハリの窓」になぞらえて言うならば、「日記」という形で彼女がこれまで我々の前に開示してくれてきたのは「①と②の領域のミチコさん」だけなのであり、かつ彼女自身にはそれ以上のことはやりようがないのである。(その上でミチコさんという人の内側には、いまだ果てしなく膨大な「②の部分」が、言葉にされないまま存在し続けていることを、忘れてはならないと思う。それが言葉にされるのは、ミチコさん自身がそれを「必要」だと感じた時だけなのだ)。

番外編」でミユキさんの視点から物語が語られた時、我々は初めて「③の領域のミチコさんの姿」を、少しだけ垣間見ることができた。「ミユキさんだけが知っているミチコさんの姿」である。そのミチコさんは、それまで我々が彼女自身の日記を通じて知っていたミチコさんとは、表情までが違っていた。



土さんという人は、いまだこの物語の中で「自分の言葉」をほとんど発していない。(たしかに「林檎あげる」みたいな短い台詞はあるのだけど)。それは彼女が「喋る必要」を感じていないからなのだと思う。でも、喋りだしたらものすごくお喋りな人なのではないかという感じが、今までの話を読んできた印象として、私にはある。美術部への入部という「新しい一歩」は、充分そのきっかけになりうることだという気がする。そうやって「自分の言葉」で語り始めた土さんの視線を通したミチコさんの姿というものを、見れるものなら私はぜひ見せてもらいたいものだと思う。ちなみに言葉がひとつも出てこないエピソードの中で描かれたミチコさんの顔も、土さんの視線を通すとやはり他のどのミチコさんとも「違った顔」をしている。



そして今回の新19話を最初に読んだ時、私が感じたのが、「ジョハリの窓の全てが開け放たれた」という印象だった。

高岡ヨシさんはこの新19話のレビューにおいて「繋がりは巡り巡って希望を連れてくる」という言葉を綴っておられ、私自身もそれが「ミチコオノ日記」という作品を象徴するキーワードであると思う。しかし今回のエピソードを通じて初めて気づかされたことだが、作中のミチコさんという人自身は、その「繋がり」が持つ意味というものを全く理解していないのである。だからそれをちっとも「大事に」しようとしていない。

土さんからもらった林檎は置き忘れてしまうし



西村さんからもらったリストバンドは落としてしまうし



ミユキさんから手渡された消しゴムは(おそらくその本体に何か大切なメッセージが書かれているにも関わらず)、7年間も引き出しの中に放ったらかしにしている。



そんな風にいろんな人たちから手渡された「大切な思い」というものを、受け取らなかったり放ったらかしにしたりした上で、「私ってどうしてこんなにつまらない人間なのだろう」みたいなことを、言っちゃあ何だけどグダグダと、今まで日記に書き続けてはったのがあの人だったわけなのである。

正直言って今回のエピソードを読むまで、私はミチコさんという人がそんなにも「あかん人」だったとは、思ってもみなかった。と言うか、知らなかった。

しかし今まで「自分の内側だけで」ジタバタしていたミチコさんという人が、具体的にはそういう形で「あかん人」だったのだということが今回こうして明らかにされたということは、この物語にはまだまだ「描かれるべきこと」が手つかずのまま多く残されているということを、明らかに暗示しているのである。(明らかに暗示...おかしいか?「明示」と言うべきなのか?でも「明示」だと言いすぎになる気がする)。

重要なのは、ミチコさんが今までそんな風に「人の思い」をないがしろにし続けてきたということは、作中の登場人物たちには誰一人うかがい知ることのできない④の領域に属する事実だということだ。(ミユキさんはもちろん、「消しゴムのメッセージ」に気づかないミチコさんに対してヤキモキし続けてきたはずなのだが、他の人のことまでは、知る由もない)。作者の人と一緒に「ミチコオノ日記」の世界を外側から眺めてきた我々だけが、④の領域のミチコさんの姿を垣間見ることができる。つまり④の領域の「自分」というものは、「神の視点」みたいなものを通さなければ人間の目には絶対見えないようにできているのである。それにも関わらず④の領域まで含めて、ミチコさんは、ミチコさんなのだ。

しかしながら、作者と読者だけがそれを知っていても、作中の現実世界で呼吸し生活しているミチコさん自身がそのことに気づけずにいる限り、その事実は「存在しないのと同じこと」になってしまう。その事実が「意味のあること」となるためには、「繋がらなかったいろんな人たちの思い」が、もう一度誰かの手によって改めて「繋ぎ直される」ことが必要になる。

本人がそれを自覚していようといまいと、それを「繋ぎ直す」ことのできる唯一の存在という役割を担って物語の中に登場したのが、昨年10月に名前が出てきて以来8ヶ月目にしてようやく我々の前に姿を現してくれた新キャラクター、シミズカズエさんなのだと思う。



人によっては「」よりもこの新19話を先に読んだという方も多いのかもしれないが、「月」を先に読んでいた私は当然にもこの人の顔を見た時、「月」に出てくるAyaさんその人だという印象を受けた。(作者の人自身、カズエさんとAyaさんの「つながり」については、否定していない。付け加えて言うとあの人は別にメガネをかけているわけではなく、もともと「ああいう目をした人」なのだそうである)。つまりカズエさんという人は単に「新しいキャラクター」というだけではなく、「異世界からの使者」みたいな「役割」を最初から背負って現れた登場人物なのだということになる。

今までの登場人物たちとカズエさんは二つしか年が離れていないわけなのだけど、ミチコさんをはじめとした三年生の登場人物たちの今井中学校における「歴史」は、間もなく「完結」しようとしている。しかし一年生でしかも転校してきたばかりのカズエさんの「歴史」は、まだほとんど何も始まっていない。

そのミチコさんとカズエさんとが、これから間もなく、出会おうとしている。そして今井中におけるミチコさんの歴史はおそらくその出会いを通してようやく「完結」するのだし、カズエさんの歴史は初めてそこから「始まる」のだと思う。

その意味で、ミチコさんという「先輩」の存在は、これからのカズエさんにとって「鏡」のような役割を果たしてゆくはずである。そしてそのカズエさんの視点が加わることで、ようやく我々にとっても、あえて言うなら作者の人にとっても、オノミチコさんという人の「全体像」が見えてくるのではないかという気がする。「繋がる」という言葉と同じくらいにこの作品の中で重要な意味を持っているのが、「鏡」というキーワードなのではないかと私は思う。







...私は何も作者の人に向かって「そういうことを描け」ということを言っているわけでは、ないのだからね。

でも「ミチコオノ日記」という「作品」がこれからどこに向かって「収束」してゆくのかということは、「お互い」にとってずいぶん明らかになってきたのではないかと思う。

島本和彦的な言い方を使うなら、「ミチコオノ日記」はこの新19話に至ったところでようやく「風呂敷を広げ終わった」段階なのだと思うし、今までの密度がものすごく濃かったから、その分だけのカタルシスは存在している。けれども読み手の気持ちとしてはやっぱり、その風呂敷を「畳み終わる」ところまで見せてほしいというのが、正直なところである。

新展開を楽しみにしてますよ。

以下は、今回のエピソードの各場面についての感想。



「獅子座の彼女」ことサツキさん。古くからの公民館メンバーの人は知ってる話だと思うけど、私ことナギ純平はブログを通して「ミチコオノ日記」と出会った当初、作者の人からずっと「獅子座生まれの女性」だと勘違いされていた経緯がある。ということはつまりあの当時、私の人間像というものはあの人の中でこんな感じでイメージされてたということなのだな。まあ、面影は、あると思います。「外に出ておいでよ」と声をかけるとまったく抵抗なく出てくるのが獅子座の特徴なのだという話だけど、確かに私にもそういうとこ、あります。ちなみに私の動物占いは「怒ると怖い象」です。むしろ人からはナメられっぱなしの人生を送ってきてるのですけど。



この西村さん、絶対に「遅刻しそうな人」の顔ではないと思う。むしろ「遅刻しそうな時こそ自分が自分の人生で一番自分らしくいられる瞬間」であることを確信している人の顔だと思う。それが西村さんという人だということなのだろうな。この人の話はもうちょっと、聞いてみたいと思う。



松永くんってこの物語の中ではそんなに「第一印象が悪いタイプの顔」ではないと思うのだけどな。あと、サツキさんには、相手がどんなやつであれ「クサい」という言葉は絶対に「人間に向かって使っていい言葉ではない」ということを、私としては、伝えておきたいと思う。



私がこの作者の人のことを本当にスゴいと思うのは、年下のカズエさんから見たミユキさんの姿がちゃんと「年上に見えるように」描かれていることである。私なんて30代なのに、それでもこの絵のミユキさんが「自分より年上」に見えてしまう。どういう秘密があるのだろう。



ヨシさんも書いていたけれど、「2年はぼろぼろ泣きながらしきりと髪を触っとる」という描写のリアリティは、すごい。何であの人らがああいう時、髪を触るのかということまでは理解できないのだけど、とりあえず「触りながら謝られる側」としては、相手が「心から謝っていない」ことはその時点で丸分かりなのである。何か絶対、「別のこと」を考えているはずなのである。



カノキミさんが素直にコスプレとかする人だったというのが、意外だ。片寄のコスプレは全然意外じゃないのだけれど。



片寄のセーラー服姿に歓声をあげるこのサツキさんの絵は、今回のエピソードの中で一番好きだと思ったけれど、同時にこのサツキさんの顔は、ナマけものさんが描く「チヨちゃん」の顔と重なっているようにも感じられる。作品世界の内側で「鏡」や「繋がり」が生み出されることにとどまらず、作品そのものが「鏡」となって「繋がり」を作り出してゆくのが「ミチコオノ日記」なのだということの例証だと思う。



ミユキのミの字が消したあんのんちゃんう?(消してあるんじゃないの?)。ひゅーひゅーひゅー







今回のエピソードを読み終えて「ジョハリの窓」と同時に私の中に浮かんできた「似てるけどちょっと違う言葉」が、「浄玻璃の鏡」だった。地獄の閻魔大王の椅子の脇に置いてあり、そこには閻魔の前に引き出された亡者たちの生前の行状のすべてが、ありのままに映し出されるのだという。だから亡者たちは、閻魔大王の前では絶対にウソがつけないことになっているのだという。テレビというものが誕生する何百年も前の時代からそういう「再生機器」のイメージを思い描くことのできた人間の想像力というものを、私は素直にスゴいと思う。



ミチコさんが数々の「人の思い」をないがしろにしてきたということは、仏教説話を信じるならば、そういう瞬間が訪れた時に初めてミチコさん自身にとっても「可視化」されることになるのだと思う。でも、それでは明らかに遅すぎるのだ。死んでるわけだから。

我々はせっかく「先回り」して、ミチコさんが受け取りそこねた「繋がり」が何だったのかということを、浄玻璃の鏡を通じてつぶさに知ることができたわけなのだ。知ってしまった以上は、何としても手遅れにならないうちに、ミチコさん本人にそのことに気づいてもらいたいものだと思う。そうでないと、これまでの話には全く「意味がなかった」ことになってしまう。

...といったようなことを、私はおそらく他の読者の人たちもそうしているのと同じように、自分自身の人生と重ね合わせながら、考えている。それは取りも直さず、私という人間自身にとっても、「ミチコオノ日記」という作品が「鏡」のような役割を果たしてくれているからなのである。

なので、若々しいこの登場人物たちの前に立っても恥ずかしくないような生き方をしなければと、いつも自分を戒めている。相変わらず散漫なことになってしまったけれど、以上をもってレビューに代えたいと思います。ではまたいずれ。

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