今井町公民館 ー「ミチコオノ日記」読者集会所ー

旧称:「ミチコオノ日記」読者日記もしくは私的ファンサイト

作者の人と話しました。

メールを通じてですけどね。

あと、この記事を書いてるのはナギなのですけどね。

あの人の言葉をそのまま引用して、一番みんなが気になっていたことから最初に報告すると、


ついに 半年以上ぶりに

鬱 が来てしまったの



…ということなのだそうです。


どんぐらいの 鬱がくるのか

わからないが

下手したら 凄いかも

前回は 3カ月寝たきりだったから笑



…とも書いてありました。私は基本的に文末に「笑」がついている文章はキライなのですが、この文面に関してばかりは、最後に「笑」をつけたあの人の気持ちをしっかり受け止めないといけないと思いました。

あとは、ほとんど事務的な話です。

  • わたしは鬱の凄まじさを知ってるから、ミチコオノ日記の本編と番外編以外の記事はすべて下書きに戻し、コメント欄も削除した。わたしはもう、ミチコオノ日記という本をここに残すだけにしたい。(もちろん、続きを描く意思はある)。
  • 公民館の編集メンバーからは、外しておいてほしい。「作者が活気を失うことがない限り、ここにスキマ風が吹くことはない」とナギに言われたばかりなのに、申し訳ない。「才能補給休暇」ということにしておいてほしい。
  • リリの二つ名から「マッド」は外した。
  • バテちゃんと明ちゃんの記事に挿絵を描いたから、貼りつけといてほしい。バテちゃんは「岬」だから「灯台に」のバージニアウルフ。よろしく^_^



  • それと、リリの記事の追記の部分にこの絵を貼りつけといてね。


  • これはカオリンさんの記事にお願いします。


…上の4枚の絵は、「鬱が浅いうちにやれることをやっておきたい」という気持ちで描きあげられたものだそうです。初めての経験ではないということで、今のあの人は落ち着いて自分の状況に向き合っているのだなと、私は感じました。通院も、できているとのことです。ひとまず私は、安心しました。

「作者の人が活気を失ったりしない限り、このブログは大丈夫」と確かに私は書いたわけですが、あの人は「ミチコオノ日記」の本編部分をネットの上に残しておくという選択を通じて「きてる配」をしっかりと私たちに伝えてくれています。「ミチコオノ日記」がある限りこの場所は大丈夫だし、この場所がある限り作者の人もきっと大丈夫なはずだと、私自身は確信しています。

では18話で。あとはナギがガツンと決めてくれ」というのが作者の人の伝言だったのですが、「ガツンと決める」ことなどできないし、またそういう風に「決める」ことが正しい場面であるとも思えません。とはいえ、作者の人から現状を伝えられた上での、今の私の気持ちについては、綴っておいた方がいいように思います。

当初は中学3年生の女の子がブログで本当の絵日記を描いているというスタイルでもって「ミチコオノ日記」という作品をスタートさせたあの人が、11月になって初めて、自分自身が本当は何者だったのかということを、明らかにしてくれた記事がありました。一昨日消されてしまいましたが、「日曜日のプロフィール」という文章です。

そこで明かされた作者の人のパーソナリティは、事実上、以下の3点だけでした。

  • 芸大出身の本職の絵描きであること。
  • 男性であること。
  • 「双極性障害」を持っていること。

そしてそれを読んだ私は、以前から個人的なやり取りを通じて聞いてはいたものの、この人にとって自分が「双極性障害」を持っているということは、自分がプロの画家であることや男性であることと同じくらいに「大切なこと」だったのだなということを、改めて感じました。そしてそのことを、しっかりと覚えていなければならないと感じました。

だから、あの人のことを支えたいとかあの人の力になりたいという気持ちを持っている一人一人の人間がまずやるべきことは、その「双極性障害」という「病気」について正しく知ることなのではないかと思います。私が他の運営メンバーのみなさんに対して提起したいと思うことは、それだけです。

あるいは運営メンバーのみなさんの中には、作者の人の他にも、「双極性障害」の経験を持っていらっしゃる方は、おられるかもしれません。ただ私に関しては、今までに発病経験がないので、実際に苦しんでいる当事者の人たちを差し置いてその気持ちを代弁することなど、間違ってもできません。現在、ネット上には発病経験者の人たちの書いた文章が多く上がっていますので、私自身も改めてそれを読み直すことから始めて行こうと考えています。

「双極性障害」は古くは「躁鬱病」と呼ばれた「病気」で、気分が高揚する「躁」の状態と、何もする気が起こらなくなる「鬱」の状態が、本人の意思とは無関係に、交互に訪れるのだそうです。同じ「病気」にかかっていた北杜夫や中島らもの小説を通じて、それがどういう症状をもたらすものなのかということに関する「知識」は、私にもありました。作者の人を通じて私も聞くようになったニルヴァーナのカート·コバーンも「双極性障害」に苦しんでいた人だったとのことであり、そうした人たちの作品に触れることも「入り口」にはなりうるのではないかと思います。

でも、「知識」としてそれを「知って」いることと、自分の身体を通じてそれを「知って」いることとは、全然違うことなのだということを、発病経験者の人たちの話に触れれば触れるほど、私は感じさせられています。

ちなみに私が「双極性障害」や「病気」という言葉にカギカッコをつけるのは、それが「病気」や「障害」であると果たして誰に決めつけることができるのだろう、という気持ちが、正直言って、あるからです。今の社会では、オトナにも子どもにも基本的に朝は何時に起きて会社や学校に行ってといった形での「時計に縛られた生き方」が押しつけられており、それができない人はクビになったり「問題児」扱いされたりといった「不利益」をこうむるシステムが、形作られています。そのシステムに適応する上での「障害」になるということから、「障害」という「病名」になるのだと思うのですが、しかしそもそも間違っているのはそういう世の中やシステムの方なのだから、どうしてそれにこちらから「適応」してやらなければならないのだという気持ちが、私には強くあるのです。私たちの生きている社会がそういう社会で「さえ」なければ、「障害」は何も「障害」にならないのであり、むしろ私たちはそれが「個性」として尊重されるような世の中を、自分たちの意思にもとづいて、作って行かなければならないのではないかと思います。

でも、実際に「双極性障害」を発症した人の苦しみについて聞いてみると、決してそれは「考え方を変えればOK」みたいな甘い話ではないのだということも、同時に思い知らされています。

以前に作者の人とコメント欄で交わした会話の中で、「わたしだって自分が双極性障害にかかる前は、うつ病の人間なんて海に突き落としてやれば必死になって泳ぎ出すに決まっていると思っていた」と言われたことがありました。

「実際には、海に突き落とされても泳ごうと思えなくなるぐらい苦しいのだ」ということを、私は直接言われたわけではありません。

でも、そのぐらい苦しいのだと受け止める以外にない言葉だと思います。

だから今のあの人には「治療」が必要であり、「休むこと」が必要なのだと、私は受け止めています。

「うつ病」の人が一番言われて苦しいのは、「頑張れ」という言葉なのだそうです。「がんばりたい気持ちがあっても、がんばれなくなる」のが「うつ」という「病気」なのだからと、いろいろな人が書いているのを、私は読みました。私はどんな状況でもどんな人に対しても「がんばれ」と声をかけるのは無条件に正しいことだと思って生きてきたところのある人間なので、そうした自分の独善性が今までどれだけの人の心にダメージを与えたり、立ち直れないような苦しみを与えてきていたのだろうと思うと、ゾッとします。苦しい心を抱えて生きている人たちとそんな風にしか向き合ってこなかったことへの反省を込めて、私は今の作者の人に対しては、「がんばれ」という言葉は絶対に言わないつもりです。

また同様に「うつ病」の人が一番プレッシャーに感じるのは、「周りから心配されること」なのだとも聞いています。特に責任感の強い人ほど、周りを心配させていることに罪悪感を感じてしまい、症状が重くなることも、あるらしいです。あの人の責任感の強さについては、みんなが知っています。「がんばれ」という言葉と違ってこのことは当方でも自分の思い通りになることではないので、約束しかねることではありますが、「できるだけ心配しない」ということも、私は心がけようと思っています。

そう考えた時に、山猫さんが作者の人と二人で作りあげたという「がんばらない。気が向いたらやる」という言葉は、本当に教えられるところの多いメッセージだったのだということに、今さらながら、気づかされています。いま改めて思うのは、「私的ファンサイト」として始めたこのブログをこうした「公民館」にすることができて、本当によかったということです。

「双極性障害」や「うつ病」で苦しんでいる人が、「がんばる」ことを強制されたりプレッシャーに追い込まれなくてもすむような世界を作ることは、一人の人間の力でできることではありません。でもさしあたりこの公民館という小さな場所を、一人一人の気持ちにもとづいてそうした世界に変えてゆくことは、可能なことだと思います。

そしてそうした世界を本当にひとつ作りあげることができれば、そこから本当に世界を丸ごと変えてゆくことだって、いずれは可能になるのではないかと思うのです。

とにかく、私は待とうと思います。「来年の3月まで」という「期限」をどういう事情や考えにもとづいてあの人が設定したのか、私は聞いていませんが、それにとらわれることなく、「気が向いたとき」にあの人がいつでも顔を出してくれればそれでいいというのが、現在の気持ちです。

そしてそのことについては、ここにいる人の全員が同じ気持ちであるはずだと、考えています。

私からは、以上です。

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